「目から遠くに」
- Loin des yeux,Loin du cœur.
- Loin des yeux,près du cœur.
彼女は灰色の車を運転していた。助手席に乗ったぼくは、きまってその日覚えた歌を歌った。彼女はタバコを吸っていた気がする。せめてもの気遣いなのだと思う、忙しそうに窓を開けてからそうしていた。
ぼくはリンガーハットに連れて行って貰うのが好きだった。
だって建物が特別な場所という感じがする。でもちゃんぽんはキライだった。野菜が多いから。(とうもろこしだけは別だ)
ぼくが楽しみにしていたのは、食後のアイスクリームである。味は覚えていない。でもコーンに巻いてある赤い紙を苦戦して剥がしていたように思う。
その日は猛暑で、いつも以上にアイスが楽しみにしていた。だがその日は店内ではなく、助手席で食べるように言われた。恐らく、彼女にもなんらかの都合があったのだと思う。今日はだめだと言ったのに、ぼくがごねたから、わがままを聞いてくれたのかも知れない。
現金で会計をする彼女の背中を見ながら、高い椅子に座りアイスを頬張った。彼女はぼくの名前を呼び、重いドアを開けてくれたので、ぼくは店の外に出た。駐車場に入った時にもアイスに夢中だった。段差に気付かなかったせいで、躓いた涙が止まらなくなったのは、右手が空っぽで、かつ、アスファルトに埋没していくような格好のアイスを目視してからだった。そうしてしばらくした後だったと思う。擦りむいた膝が痛くなってきたのは。
いつまで経っても泣き止まないぼくに、彼女は、厳しさの棘と呆れの息が混ざった声で「行こう」と言った。そこにどれだけ居たってアイスが戻らないことくらい理解できていたが、どうしても動きたい気持ちにならなかった。
「きっとねずみさんが食べてくれるよ」と彼女は言った。ぼくには「最初からそのアイスはぼくのではなかった」と言われているような心持ちで、ますます涙が止まらなくなってしまった。その日、その後のことは全く覚えていない。
まだ母親の気が狂う前だった。もしくは、それに気付いていない頃だった。だから場所や日付をハッキリとは知らなくても、それが間違いなくぼくが幼稚園生の頃に起こった出来事だと分かる。
レギュレーターハンドルという呼び方は恐らく当時からあっただろうが、ぼくたちには関係ない。それは「くるくるくるまのまど」だった。窓を開けると涼しくて気持ちいい。だけど煙と一緒に声が外に出ていってしまうのがもどかしかった。自分の歌を褒める彼女の声が、小さくなることが。
「ちょうどよいとき」
- rien ne sert de courir,il faut partir à point.
そもそも人生において、後悔のない人などいるのだろうか。そう思いつつも、手に取ってしまった。早速新たな後悔が生まれる。古書店で出会ったその本には、死ぬまでにやるべき100のことがらが書いてある。どう考えても、自分がこれまでの後悔してきた後悔の和は100を超えている。一冊の本に人間の後悔が入り切るのか、という本筋から外れたところが気になってしまった。
それまで「死後の世界」と呼ばれていた場所が電子化できるとわかったのは、昨年2020年5月1日のことだった。脳の機能が停止する前であれば、意識はサーバーに移せる。「中枢神経系と電気的働き」という言葉がまさか流行語に入ろうとは、という話題を持ち出す人は未だに多い。順当にいけば”そういう人たち”が先にこの技術の世話になるのだろう。関心を持つのも頷ける。
聞くところによれば、ある学者が精神疾患の治療技術を研究していたところ、その応用で「死後の世界」が建設できることが分かったそうだ。眉唾も、こうして実現されれば信じる他ない。いくつかの精神疾患はこの世から消え、まるでその隙間を埋めるように、世界がひとつ増えた。
人生の断片は電気で動く金属の箱によって、魂の鏡となった。どちらも皮肉である。
切手も古本もまだある。レコードもファミコンソフトも探せば見つかるというのに、デジタル通貨の流行よりも凄まじいスピードで死後の世界が共通言語のひとつとなった。「あの世」との交流の余地はまだないにせよ、当然好奇心は湧く、受動的に死生観やそれにまつわる寓話に触れる機会も増えた。
猫を撫でることも、犬に飛びかかられることもない世界に生きることは、果たして幸福だろうか。無邪気な動物の写真集に、人間の世界の尺度で選んだ言葉を載せ金儲けをしようとした結果たる100円の文庫本を見て思う。
人間のしがらみも煩わしさも、そして未来も小さな箱に入るのだろうか。売れないパンクバンドがアナーキズムをテーマに作成したCDアルバムを見て考える。ケースは割れているし、歌詞カードの一部も破れているようだ。
いやいや、それも電気信号に過ぎないんだってば。という自分の声もまた突き詰めれば電子信号なのだろう。愚かな問答は中学生の時以来だな、と思うとため息は出るが口角は上がる。
そもそも魂が大きいだなんて誰が決めたんだろうか?「命の重さ」という言葉に引っ張られてマンモスを想像していたが、ティンカーベルと同じくらいの大きさなのかも知れない。ラケットで打っても手応えがない程度の儚さであることは、もう知れているじゃないか。
代金の350円は、敢えて4枚の貨幣で支払うことにした。紙袋の持ちづらさを味わうため、敢えて鞄には入れない。
「くだらないものの重さ」でも、今のうちに味わっておくことにしようじゃないか。
「夜にはすべてが」
- La nuit,tous les chats sont gris.
どうでもいいことには拘りは持てない。絵の具や鉛筆の違いも、クラシック音楽でなぜ同じ演目のCDがなぜ何枚もリリースされているのかも、ぼくにはよく分からない。
待ち合わせた新大久保の駅は、ぼくの住んでいる街とは空気が違った。マスクをしていても、明らかに「あ、この人だ」と分かる出で立ちがきみだった。インターネットを通じて人と出会うのは初めてではないが、やはり少し緊張する。メッセージでのやり取り通り、きみの両腕にはタトゥーが入っていた。かっこいいね、と言うと「でしょー!さ、行こうよ」と返ってきた。オンラインのやりとりでも快活さは伝わってきたが、ここまでか、と驚いて嬉しくなる。
彼女は何でもかんでも口に出す。思ったことはその場で言う、を信条にしているように見えるが、直接そう聞いたことはないため、そう決めているわけではないのだと思われる。決めているならそう言っているはずだ。
駅から歩いて10分もかからないところにきみは住んでいた。途中、コンビニによると彼女は僕の前に向き合い、「なんでもここにいれろ!」とそこそこ大きな声でいい、オレンジのカゴをこちらに向けて広げた。流石に店員さんは驚いていて、ぼくも笑ってしまった。買うものを選びながら直近の話を聞く。一週間ぶりの帰宅ということで、何もないらしい。僕の感覚でいうとスーパーで買う量なのだけど、彼女はお構いなしだった。せっかく買ってくれるというので、ぼくは少し高級な板チョコをねだってみた。
結局8,000円近くなった会計を気にもせず、きみは現金で支払った。だらしないからカードは怖くて使えないんだよー!と会計をしながら僕に言った。想像した通りの理由だったので「だと思ってましたよ」と言うと、なぜだかきみはこれまでで一番楽しそうに笑っていた。職業柄、あるいは不安がそうさせるのだろうか、などと考えてしまうが、きっと彼女は肌感で判断したに過ぎない。
結局用意した箱は当日に空っぽになった。散らかったテーブルの上を見て、ベッドの上もそうだなと思った。その上で、ぼくたちは初めて自己紹介をした。ふたりともなんだかくすぐったくて、ところどころ敬語になっていたのがバカバカしくて最高だった。
僕がもっとも気になっていたことを質問すると、きみは「全然違うよ」と言った。拘りを持つに至ったきみの過去を想像して、ぼくは足の指先から震えてしまった。
「許される」
- Péché avouée est à moitié pardonnée.
- Péché chaché est à moitié pardonné.
明らかになるまでこれは罪ではないと、まりかは考えている。だからばれるのが怖い。
打ち明けたらそれは罪ではなくなると、ぼくは考えている。だからもうぼくに劣等感はない。…まりかとふたりきりのとき以外は。
彼女がぼくにそれを打ち明けたのは、ぼくのことをよく知っていたからだろう。「甘えられるときには可能な限り甘える」彼女らしい判断だ。それが下手くそなぼくは彼女が心底羨ましく、そしてそんな彼女を愛おしく思っている。
その恋には、まったくもって許される余地がない。それはもはや”常識”のひとつ上、集落の共通認識である。ゴシップの泥がレンガになり、積み上げられ、いつの間にか堅牢な城塞になっていた。経年劣化以外ではとても崩れそうにない盤石さを誇るそれは、風刺画になるために生まれてきたようでもある。当事者同士が話し合うよりも、判決が言い渡されるよりも先に、その城塞からは「お気持ち」の弓が射出される仕組みだ。学習しない猿の知性とモラルの天井の高さは、断頭台があった時代から変わっていない。
とはいえ、「人が修め、守るべきみち」を否定する表現がついた言葉だけある。辞書には”人が踏み行うべき道からはずれること。特に、配偶者でない者と性的関係を結ぶこと”とあった。
救いを求めて何かを調べたり読んだり、人に話を聞いたりするたびに裏目に出る。許されないことをしている自覚があるだけに何かにすがりたい。だけど占いやスピリチュアルにハマれるほど馬鹿でも素直でもない。溺れているときにさえボートを選ぶ自分のアクの強さに思い至って更に気落ちする。この世には自分が甘受できる救いがひとつもないと思うと、どうしても孤独で涙が惨めに溢れる。
踏み出す足すべてが取られて身動きができない状態である。彼女の心は塩を浴びたように萎びている。殻の中に逃げ込んだ一部の理性を守るために、抜け殻のふりを続けている。それは恐ろしく苦しい。喘息の発作によく似ている。
虹の向こう側を目指そうとする人たちのいる時代にも、都合のいい「らしさ」は消えない。スカートやヒールを履く「自由」、会計やエスコートの「権利」はまだ存続している。憧れと不便さが共存する人間社会の歪さに息苦しくなって、街を飛び出してきた。社会性という重く捻れた鎧は剥奪された。ぼくはきっと、もう蝸牛とは呼ばれない。蛞蝓である。ぼく自身は何も変わっていないのに、殻を無くしただけで駆除と侮蔑の対象になった。
「らしさ」は辞書にはない。らしいの項には、次のようにあった。
“その気持を起こさせるのが自然な様子だ。”
自然それができそうとはきっと思われてもいないし、思われたところでできもしない。自分にあった意味の言葉を探すなら「らしくない」よりも「落伍」か「失格」の方が適切だなと自嘲した。
呼び方に拘る抜け殻と、呼び方はいらない落ちこぼれは、出会うべきだったのか否か。そんなことを考える前に殻にもぐりこんだ蛞蝓に、蝸牛は甘い声で「蝸牛にも蛞蝓にも、性別はないんだって」と囁いた。「らしくない」のない部屋のなかで、僕たちは性別を入れ替えて遊ぶことに決めた。