文芸作品

『薄着して コーヒーの香り iは赤』(最終更新:2021年4月25日)

詠みたいと きみが言い出す交換日記
葉桜の頃 青春アゲイン

第一週

g3月e5日


日差しの中を15分も歩くと汗だくになる。我ながらよく持てるなと思う大きさの黒いケースの持ち手ももう・・びしゃびしゃだ。数少ない趣味を手に、古臭い建物の4階、一番奥の部屋に向かう姿もきっと様になってきたはずだ。

うちは「裕福ではない」。だからギターも貸し出されたものだ。私のじゃない。このギターは電源不要。だから家では弾けない。ヘッドには、海の向こうの町の名前が買いてある。もちろん名前しか知らない。消えない手垢のついたトップは生意気にマホガニー。「ヴィンテージよりもヴィンテージっぽいですよね」とあの人は笑う。

クラシックギターの演奏は、それを抱えるような格好になる。それを初めて知ったのもこの場所だ。正しい姿勢で演奏するために、足台を使う。他に一切用途のないだろうこの道具を、私は気に入っている。椅子に浅く腰掛け、右足を足台に乗せる。左手を逆手にしてネックをふんわり握る。右手にピックは持たず、主に人差し指と中指を使って弦をはじく。使うのは合計たったの6本の指だけなのに、こわばってしまってちぐはぐだった。最近は、それぞれがある程度独立して動くようになったが、生まれたての子鹿と大差ない拙さだと思う。

気合を入れたわけではないけど、初日はスカートで参加した。それがきっかけになるとは。
足台に足を置いて猫背で指板を追っている私に、あなたが声をかけてきた。私の名前を呼び捨てにせず、ちゃん付けもせず、さんで呼んでくれる珍しい人だった。声は暖かくて太いのに、氷柱のようでもあった。

あなたはギターをひょいと持ち上げると、優しいお父さんのような穏やかな笑みを浮かべながら大きな紺色の厚手の布を私の膝にかけてくれえた。エアコンの効きの悪い部屋はただでさえ暑いのに、私の顔はさらに熱くなった。だれにも覗かれるべきでない宇宙を広げてしまっていたことに恥ずかしくなった。星雲の色はオフホワイト。あの人は私の顔色が変わる前に、とっくに席に戻り他の生徒と話していた。

親の影響で小さい頃からギターが引けるハチくんと話しているときのあの人は、先生ではなく音楽好きな青年の顔をしている。

本当は家でベヒシュタインのピアノが弾きたい。きっとその時の私の指は、子鹿などではなく、スプリングボックのように跳ねる。跳ねる。小さい頃から何度も想像し続けてしているんだから、きっと。その指と音を見て、音楽好きな青年はもっと子供っぽく無邪気な表情に変わる。そうに違いない。

ませた女学生はよく目的とか手段とか、駆け引きとか女の武器について話している。だがそこはそういう不純さとは完全に切り離された空間なのだ。

性別も年齢もないに等しい。だってそこには指輪もないでしょう。
時間を忘れて放蕩を貪るように、空気が震える。日食のように、感嘆はその先に自然に存在する。

そんな妄想を誰にも言えよう。スノードームのラメが美しいのは容器の中にあるからで、もし肩にでもついていたらごみだ。私はそれに気付かないほど、純粋でもきれいでもない。

成獣のわたしが、胸を張って草原を走れるようになれるのはいつだろうか。

光陰矢の如しと 苦しく 笑うぼく
君の丸めたティッシュを食らう

Nf3月e4日


「どうにもダメ」

と彼女は鼻をティッシュで押さえる。さっきから箱の四分の一は消費している。

陽の光がまばゆくなり始めるこの時期、世の中の人の半分くらいがこの症状に苦しむことになる。

原因はいろいろ言われる。スギを植えすぎた所為だとか、清潔すぎる環境の都会人の身体が免疫力を持て余しているからだ、とか。

そんな分析は苦しむ本人にはどうにもならない。

そしてぼくは花粉症じゃない。不思議なくらいにご縁がない。ひたすら眼の痒みと鼻詰まりを訴える彼女に同情するばかり。

「病院には行ったの?」
「一昨日行った。薬は貰ったけど、あんまり効かない」
「やれやれだ」
「やれやれですよ」気怠げに彼女は立ち上がった。わずかに甘い香りがした。化粧品なのかシャンプーなのか、彼女が現れた証だった。香りの主はアップライトピアノの前に座り、蓋を開ける。ひと呼吸おいて室内に誰もがいつか聞いたことのある映画音楽が流れる。中世のイタリア、若い男女の悲しい恋の運命を描いた物語。弾き手の普段の様子とは結びつかない繊細な音の連なりは、いつ聞いても少し驚く。
しかし、高く歌いあげようとする手前、音が乱れる。

「やっぱり、ダメ」
彼女は手を止め、こちらに戻ってくる。
さっきまでの品良い音色とは真逆の、鼻腔を空にする鋭い音が響く。

「ああ、やだやだ」
またピアノの前に戻り、演奏を再開する。
ぼくの頭はぼんやりし、まどろもうとする。こんな曲まで弾けるようになったのか、と彼女の成長を思いながら。両手を使って弾けない、と苛立っていた頃、彼女は花粉症で苦しむことはなかった。

時は過ぎる。雨が降るように、音が一つずつ重なって旋律が出来上がるように。
ぼくは彼女の演奏のいくつか気になる点を注意した。彼女はそれを直しながら、四度目の演奏が終わった。

「今日はこのくらいで」
「うん」
おしまい、の塩梅だ。

演奏前に淹れておいた急須にお湯を足す。二人で出涸らしをすする。
「今日は食べてくか?」
「いい、今日は作るって母さん言ってたから」
「そうか」
彼女はまたティッシュで鼻を押さえる。屑籠にはもうティッシュの山ができている。

「じゃ、またね」
カバンを肩に掛けて彼女は部屋を出ていく。
「またな」
玄関まで見送ったあと、気配の消えた部屋を眺める。

一人の食事は慣れているけれど。冷蔵庫の中身を思い出しながら、屑籠の中身をビニール袋に移す。彼女を真似て鼻をかんで見るが、空気が抜けただけだった。このティッシュも丸めて袋へ。おしまい。

かもめ達 冬置き土産の 波光る
手は冷たくて 砂浜ひとり

Nd4月d5日


ライフルを持ち歩く人はいない。

ふとそう思ったとき、自分らしくない早さで決断ができた。これまであんなに長い時間悩んでいた理由さえ分からなくなるほど、当然の帰着だと気付いた。両手で数えるにも少ない友人にだけ、電子メッセージで決断を告げた。そうして欲しいわけではないが、誰一人引き止めるようなことを言わなかった。

ごく親しい山口さんだけが「もっと早くそうすると思ってたよ」と鳥の絵文字付きでわたしを茶化した。そして、餞別としていくつか空の写真を送ってくれた。高額なカメラで撮ったものではないし、ピントも少しずれているが、美しかった。悲しみや後悔はないのに、泣くこともあるのだと身を以って知った。人生で流す最後の涙だった。

「昔は面倒くさかったんですよ。ただ手続きして貰わないと困るのはこっちですから、ガスや電気や転送まで一元でできるようになっているみたいで」
年下の職員はを殆ど発音しない言い方で教えてくれた。生意気だの礼儀を知らないだのと言われて嫌気が差して、いずれわたしと同じ手続きをするのだろうか、などと勝手に気を揉んだ。若い頃の自分はそういう事を言われるのが大嫌いだっただろうが。彼の言う通り、役所の手続きは拍子抜けするほど簡単だった。

さて。

敢えて言うなら、気になるのはひとつ、身体の色くらいだ。真偽は不明だが、巷では「心が模様になる」とか「変わり者だと蛍光色になる」とか言われていた。散々そう言われてきたのに、頭から胴体まで白く、背と翼のは灰色、くちばしと足は黄色。ガラスに写ったときにだけ標準的なそれが分かる。

知らない街まで飛ぶのは大変だった気がするが、そういうことはすぐに忘れられる。気圧と風の流れだけが分かる。天敵と捕食すべきものの位置も感覚的に理解できる。この世界では誰もが鳥間距離・・・・を守るので無駄な衝突もない。無論煽られることもない。だから本来必要のないはずの、だがいつのまにか必須になった記録装置を買うために余計に働く必要もない。

わたしは地上を捨てた。どれくらい経ったのかは余計なことなのだろう、もう覚えていない。国が求める手続きを踏んで、わたしはかもめになった。格段に生きやすくなった。のだろうか。それももう忘れてしまった。

生きるには事欠かない。好きだった歌も覚えている。宙返りの仕方は知らないが、それで困ることはない。

知らない街の波打ち際上空で、わたしは旋回を続けている。一緒に飛ぶのに名刺などいらない。風に乗れば、自分の後ろに風が起こる。そしてそれに続くものが出てくる。その循環の中にいることこそが、わたしには「自然」に感じられた。

横目で見ると、見覚えのある女が、男に連れられ、女児二人を連れ、砂浜を歩いているのが見えた。その瞬間彼女と目があった気がした。

「遅かったじゃない」とだけ、彼女が言った気がした。もうすべてを忘れても良いぞと、わたしの翼が声を合わせた。

ひみつきち 行くかどうかを相談す
大きな声を 公園で聞く

d3月exd3日


私はダンボール。

二週間前にこの家にやってきた。
私の客人は「イス」と呼ばれていた。私の役割は彼を包んでやること。
そして彼は子供部屋に迎えられ、私はその役割を終えた。役割を終えた私はどうなるか?長く続いた同志たちの歴史を私は知っている。大体は二通りだ。

ひとつめ。カッターでそれまでの形を崩され、同志と共に束にされ、片隅に置かれる。そして暗いどこかに連れて行かれ、粉々になり、再生の時を待つ。

ふたつめ。誰かに持ち去られる。そして尻に敷かれたり、家にされたり、とにかく風雨にさらされ、やがてぐずぐずと溶けていく。再生の時はない。

話は逸れたが、役割を終えた私はこの家の子供の「ひみつきち」となっていた。
私はかつての客人「イス」よりも慕われていた。子供は多くの時を私の中で過ごしてくれた。お気に入りのタオルやおもちゃを持ち込んで。卑しいことかもしれないが、私は「イス」に優越感すら抱いていた。

しかし幸せは長く続かない。

「あんた、いつまでこのダンボールで遊ぶつもり?もう角がボロボロじゃない」
鋭い声が降ってきた。子供の母親だ。
「この部屋も狭いんだし、もうそろそろ捨てないと」
ちきちきちき。カッターも既に手にしている。行動の早い女だ。
「ダンボールさんはどうなるの?」
子供の問いに、母親はひとつめの運命を語った。そうなると良いが。ふたつめにならない保証はない。
子供は寂しげに私を見る。
「捨てるかどうか、早く決めて」
この女からしてみれば、選択肢は一つだけなのだろう。

「ダンボールさんに訊いてもいい?」
子供の言葉に母親は怯んだ。私も驚いた。
「……わかった」
意外にも柔軟なようだ。母親は私と子供を二人きりにしてくれた。

子供は私に手をあて、私の声を聞こうとしている。
良いのだ、子供よ。私は君との時を充分に楽しんだ。役割だって充分に果たしている。次の運命を待つのみだ。聞こえるかね?

「……うん!」
何ということだ。この子供は私の言葉がわかるのか。
部屋のドアが開き、母親が入ってきた。
「ダンボールさんは、何て?」
「まだここにいたいって」
いや、違う。それは違うぞ。私はそんなことは言ってない。やはり私の言葉は理解されないのか。二度目の驚きと心地よい失望が同時に広がる。

「あらそう。じゃ、仕方ないわね」
驚くべきことに母親も子供の決定を受け入れた。

そして私はしばらくの間、また「ひみつきち」を続けることになった。子供との会話は相変わらず成立しない。まあ、いいだろう。

夕焼けと 風にめくれる A5のノート
ごめんねの文字 蝶だけが見た

Qxd3月Nf6日


何を許されるのか。誰が赦せるのか。空に浮かぶのとは少し違う虹色の旗。その意味を知らない人たちに向けて何を言葉にすれば、世界のどこがどう変わるのだろうか。

「サルと戦うときにサルになるの、あなたの悪い癖よ。引っかかれたら引っ掻きかえそうとするでしょう。真面目さ故の思考だと思うのだけれど…人間なら”ぶっ放す”だけでいいのよ」と、カラカラと笑いながらあなたに囁かれた日を思い出して恥ずかしくなった。13年も戦って来たのだ。違うな、待っていただけかも知れない。いやいや、待つことが自体が戦いそのものだった。理解されなくていいけど、私達はそう思っている。人の口に戸が立てられないのは致命的なデザインミスじゃないか。欠陥住宅を作りやがって、と私が毒づいたとき、「私達の方が欠陥だとは思わないの?」とあなたが真面目な顔で言った。後悔に脳がひたり言葉がまとまらない私を見て、あなたは「私の勝ちね」といつものようにカラカラ笑った。

紙切れ一枚じゃないの、と私が言ったときに私の敗北は既に決していた。「じゃあいいでしょう」と返されてK.O.された。そこからの一週間が急流よりも早かった。私の両親に手紙を認め即日発送し、「視察のため」とだけ言い有給を勝ち取り、式場の打診をした。一番気に入っていたところから「カトリックなので式はできないが披露宴なら」と言われたあと15分だけは嵐が来ていたが、その後は快晴で今日まで漕ぎ着けたのはあなただからだと思う。

「宗教は弱者のためのものだ」も「男らしい」も「女々しい」も、一体誰が言ったんだろう。「馬鹿どもめ」を乾杯の音頭代わりに、缶チューハイで乾杯した。

税金を多く払うことに関しては無理やり納得している。財産は残さないと決めているのでそれも良い。「目をつぶれば二人でいられるのに、わざわざ照明を浴びに行くようなところがある」と本当に不思議そうに首を傾げるあなたへの憧れに一瞬で心を奪われた。遊びに行くには便利なのに、生活するのには不便というちぐはぐさが、人間の愚かさをそのまま反映した風刺作品のように思える日ばかりだった。

涙は落ちて蝶に変わる。その蝶だけが、気が咎めるような味の蜜を吸い、飛んでいった。もう同じ色の涙は流れない。その日見た夕陽は何よりもキレイだった。二人で眺めて呼吸をしたとき、肺に6色のプリズムが流れ込んできた。愚かな風刺作品を美しいと思えるようになるまで、31年かかった。

「どっちが彼女?」という下らないジョークでよくも笑える。品性をどう貶してやろうかせっかく考えていたのに、由加はサラッと「ご覧の通りどちらもです」と直線を声に出して、ニコッと笑った。

そうですね なんだか
ふたりきりのせかいをつくってるみたい
ふわふわします

Bg2月Bb4+日


その教室は小さかった。

いつも工事を繰り返す大学の、一番高い建物の一室だった。七階のその教室に行くには、エレベーターに乗るしかなかった。
三人が並んで座れる長机一つに二脚の椅子が組み合わされ、それが左右に六列ずつ。だから全部で12人しか入れない。その12人の前に教授や講師用の机と椅子が一組とホワイトボードが一つ。
日差しが射し込まないよう、窓にはブラインドがかかっていた。
ゼミや履修者の少ない大学院の授業によく使われた。そしてその教室で彼女を見たのは、5月の水曜日、二時限のすぐ後のこと。
正確に言えば、教室から出てくる彼女を見た。
髪の毛は染めた気配がなく、肩より下に伸ばして一つにまとめていた。ジーンズに紺色のカーディガンが垢抜けなかったが、化粧っ気のない目鼻立ちははっきりしていて、美人、と言っても誰も反論しないだろう。まだ一年生だろうか。キャンバス地のトートバッグをごそごそと肩にかけながら、足早に立ち去っていった。
水曜の二限は空室のはずなんだが。
ぼくはこの教室で三限からゼミがある。家で朝食兼昼食を済ませてから、昼休みの時間を予習や院試の準備をこの教室でやる。図書館や自宅より集中できる気がする。移動の時間はいらないし。

翌週も彼女を見かけた。そのまた次の週も。
梅雨が始まると、彼女を見かけなくなった。学内をすれ違ったこともない。学生数は多いから、専攻やサークルが一緒でないと大して知り合うことはない。

梅雨が明けるともう夏休みだった。そのまま10月になって、再び彼女を見た。

今度はあの小さな教室ではない。
百人規模で収容できる大教室だった。後期だけの授業で、うっかり履修しないまま過ごしてしまった必須科目。ぼくのような年季の入った四年生よりも、要領の良さそうな一、二年生が大半を占めている。
ぼくは教室に入ってすぐ彼女に気付いた。後ろ寄りの座席。長めの睫毛をふせて、文庫本を読みながら授業が始まるのを待っている。
あ、いたんだ。小さな感動を覚えつつ、ぼくは彼女の三列後ろ、斜めの席に着いた。
まだ院生の雰囲気の抜けない眼鏡の男性講師が入室してきた。出席カードが配られると、ソクラテスから始まる西洋哲学がゆるやかに語られ出した。

九十分後、男性講師が授業の終わりを告げると、学生達も席を立ってドアから出て行く。
しかし彼女は違った。ドアとは反対側のブラインドがかけられた大窓に向かった。そしてブラインドを持ち上げた。強い正午の光が隙間から射し込む。光に照らされて、銀色のサッシの上に四角いハンカチの包みがあった。
えっ。ぼくは思わず唾をのみ込む。
お弁当箱だ。

彼女はそれを両手で左右から包み込む。温度を確かめているようだった。そしてトートバッグにしまうと、もう四、五人しか残っていない教室を後にした。

そしてまた水曜の二限後、あの教室から出てくる彼女を見た。そして窓にかかったブラインドが、下から三センチばかり上がっていた。
ぼくはようやく理解した。二つの教室には共通点があった。どちらも窓が東向きで、ブラインドがかかっている。日光の力で窓ガラスとブラインドの間に小さな温室ができ、そこで彼女はお弁当を「保温」しているのだった。

「それ、お弁当を温めてるの?」
三度目の西洋哲学の授業の終わり、ぼくは彼女に声をかけた。彼女はぎくり、とこちらを振り返った。
「はい」
悪戯が見つかった子供のようにばつの悪そうな笑いを浮かべている。
「面白いこと考えるね。それ、食べ物傷まない?」
「平気。四月からやってきたけど、お腹壊したことないです」
ふと気付いたが、彼女は以前に比べて垢抜けた雰囲気になっていた。黒のカーディガンにグレーのタイトスカートで、すらりとした身体の線がわかる。
「偉いね、自分で作って来てるの?」
この都心の大学は、自宅生よりも全国から進学して来た学生も多かった。大抵の学生が学食やらそこら辺の飲食店で食事をするから、お弁当は珍しかった。
また彼女はばつの悪い表情をする。
「ううん、母が」
「あ、そうなんだ」
それじゃ、と彼女は足早に立ち去った。

けどそれ以来、彼女は顔を見ると会釈してくれるようになった。
ぼくも一度だけ、冷凍のホットドッグをこの「温室」に置いてみた。九十分の日差しを受けた昼食は、確かに温かかった。
二人の秘密を共有した気になったのも束の間、晩秋がやってきて気温が下がり、「温室」の効果はなくなった。彼女もお弁当を置かなくなった。

十二月の水曜の二限後、ぼくはまた小さな教室で彼女に会った。
「あ、お弁当のひとだ」
「もう、やってないです」

そして彼女と少し話をした。やはり一年生であること。彼女は二限に隣の教室で語学の授業があること。しかし今日は突然の休講で、暇を持て余してさっきまで本を読んでいたこと。ぼくも自分について話した。心理学が専攻であること。これから院試を控えていること。
「研究者になるんですか?」
「いや、そこまでじゃないけど。今しかできないって考えたら、二年くらいはやってみようかなって。働いたらできないでしょう」
「今しかできない……」
彼女は思いを巡らせているようだった。
「それ、あんまり考えたことなかったです」
少しぼくは踏み込んでみることにした。日差しでお弁当を温める女の子。
「今度、食事に行かない?」
一呼吸して彼女は悪戯そうに笑った。
「いいですよ」

そしてぼくの頭はふわふわした。

鶯に 真似る口笛 名手いて
暁の青 深呼吸する

Bd2月Bxd2+日


23時に電話がかかってくるなんて珍しい。カップ麺を食べ終わるまで取らないでいたら切れるだろうか、と考えている。切れたので書け直す。

今日のまりかの声はいつもよりリラックスしていた。さては、慣れない酒を飲んでいるなと思った。だが、そうではないことがすぐ分かった。その声と音で、飲んでいるわけではないことも、そもそも飲み屋にいるわけではないことも分かった。動悸がする。まりかと知り合ったのは2週間前、このご時世にチャットツールでだった。厳密には3ヶ月前に会っていた。別の登録名だったがすぐに分かった。声を聞けばすぐわかる。

「でも、それも一理あるかなと思うのよ」とまりかは言った。今まで断られてきたことがこうもあっさり達成されるとは思っていなかった。だけに戸惑った。

「そういうわけで、ごめんね」

切れた後は、何も考えられなかった。眠ることを選択できないまま、空の色が変わっていくのを眺めているしかできない男が窓際に残されていた。彼女と僕は違うベッドの上にいる。

約束を尊ぶあなたと流れ征く
未来はきっと ハッピーエンド

第二週

Nxd2月O-O日


ぼくの持ち時間が30分、彼女の持ち時間が30分。
その約束はいつもしっかり守られた。
「えらいですねえ」
火曜日と金曜日の18時半、必ず待っているぼくに、彼女はいつもそう言葉をかけた。色素の薄い眼を大きく開いて、こんばんは、の挨拶の代わりのように。

ぼくが母国を離れ、この都市にやって来てから四か月が経つ。20代のうちに修業のように国外の事業所に赴任させるのが会社の慣例となっていて、ぼくもここに放り込まれた。社内で英語は通じるし、日系の企業だから日本語を話してくれる現地スタッフもいる。だけど、社外の顧客の英語は少しあやしげだったり、街中ではまず現地の言葉しか通じなかった。

そこで個人レッスンを紹介された。語学学校が卒業生を講師として会わせてくれる。そうして彼女と出会った。日本語を習得した彼女と、この国の言葉を少しは覚えたいぼくは、仕事終わりの談話室で顔を合わせる。言語交換、と称してぼくが彼女に30分、テキストを挟んで言葉を習い、彼女は30分日本語でぼくととりとめのない話をする。一年前に卒業したばかりの彼女の日本語は、ぼくのこちらの言葉より、圧倒的に上手だった。

「そのあと、猫はどうなったの?」
彼女の30分になったとき、すぐに質問された。
ぼくの30分で話した、小学生のときに公園で友達と飼っていた猫のことだ。猫は子どもを産んで、ぼく達はその飼い主をどうにか探したのだった。
「わからない。どこかに行っちゃったんだ」
「えーー」
彼女の大きな眼がさらに開かれる。
「あなた達は頑張ったのに、猫はわかってなかった!」
そうかもしれない、とぼくは苦笑した。母国語ではないとき、表現は直接的になる。子どものような可愛らしい言葉に。
「わたしだったら、何もしない。猫は猫のジジョウで子どもを産むでしょ?」
「そうだよね。けど、エサはあげていたわけだから」
ハハン、と特有の相槌が打たれる。
「ふうん、て言うかな。ハハン、のとき」
「ふうん」
「そうそう」

「あと、何て言葉だっけ?セイニンカン?」
「え?」
「エサをあげていた猫、子どもを産んだ、その子どもを飼える人を探した。関係したら、必ず最後までやろうとする、考え方?感覚?」
「ああ、責任感」
「そう、それ!セキニンカン」
そして彼女はこちらでの言葉を教えてくれた。
「だけど、日本人はセキニンカン、大事にするね。わたし達はそこまでじゃない」
確かにそうだ。この土地の人達から感じるのはのびやかさ。ひとり一人が自分の意思で動いている。責任よりももっと別のものに重点を置いた生き方。

「マコトはいつも時間を守るね。だからわたしも守ることにした」
「ああ、そうなんだ」
「わたしもセキニンカン、強くなった」
確かにそうだった。彼女は最初のレッスンは10分遅れて現れた。けど、3回目以降はぼくのすぐ後に談話室にすべり込むようになった。

亜麻色の睫毛を細めて笑う彼女に、ぼくは1時間の授業時間の30分延長を来月から頼めないか、少し考えあぐねた。

薄紅の 桜の雲に 白鷺しらさぎ眠る
その美しさ 己気付かず

c4月Na6日


「クライアントの知識は、我々からすれば小2・・程度だと思ったほうがいいぞ。無論、見下せということではない。逆だ。我々にはそんな人達に向けて果たすべき説明責任がある、要するに”大人”の知的水準と対応が常に求められる。そのことを忘れるなよ」

その言葉を思い出すたびに、上司だけはマトモな神経だったと思う。所謂ブラック企業は、労働について小2レベルの知識しかない社会人を食い物にして成長する。「闘うつもりなら知識や専門家を武器にしろ」ということを遠回しに私に教えていたのかも知れない。当時は錯乱と呼ぶに相応しい攻撃性で、目に映るものすべてが敵に思えた。彼からすれば「飼い犬に手を噛まれる」と呼んで差し支えない状況だったのに、よくも最後まで穏やかに対応してくれたものだと思う。

女性は清楚でか弱い、男性は力強く逞しい。そんなイメージを真に受けていないさと皆笑うが、実のところ洗脳から解けている人も少ない。それは「バカバカしい」と格好をつけつつサンタクロースを待つ小学生にもよく似ている。

言わせておけばいい、最後は私が異性を選ぶのだから。子供を産ませれば相手は変わる。好き好んで家を守るようになる。この街では男女ともにそう思っている。そして、それ以外の手段や幸福があることを、稲穂が揺れる町では誰も信じていない。

実にあの人らしい物言いだったが、上司の言葉はこの世界の真理を言い表している。

「『(小2にして)それをご存知とは流石です』と煽てるのを忘れるなよ」という言葉を聞いた回数は、恐らく私の年齢をゆうに超えている。どうしてもそれができなかったのは、私の精神年齢もそのレベルだったからに違いない。商業の映したロックスターの影に憧れるような、大人になりきれない部分があるのだ。そしてそれは、その業界に勤める人間には致命的な欠点だった。

そういう話をすると、あなたは豪傑に笑う。歯列矯正を受けられるような家庭ではなかったことは過去の話から想像できる。あなたの下の前歯は反時計回りに少し曲がっていて、小さい。その不格好さなど吹き飛ばすが如く笑うあなたを見ていると、自分の悩みの小ささと曲がった性癖を嫌でも自覚する。

あなたはとまり木のような恋愛ばかりさせられて・・・・・いる。少なくとも私にはそう思える。どっしりとしたあなたの周りには、路頭に迷った小鳥ばかりが集まってくる。そうしていくつかの果実を勝手に啄んだあと、飛んでいく。少なくともこの町では、籠に入っていない小鳥は愛情を知らない不良品というのがあなたを除いて共通認識なのだ。だからあなたはそういうのを呼び寄せる。分かっているならなぜ振り払わないのかといつも思うが、そういう次元で物事を考えない。だからこの町にいても、他人を不良品扱いしない健全さを保てるのだ。

あなたのそこが好き。だけど、私の恋はどうやら、うまくいきそうにない。

ごめんねを笑顔で言って去る君の
許されなさをもう許している

cxd5月Nb4日


その気配には、みんなそわそわする。
素っ気のない腕を伸ばして凍る青空に揺れるとき。
じっとその先を見つめて膨らみを確かめる。
コートの前を掻き合わせ、急ぐ足をふと止めて。
止まらないくしゃみを消してくれる魔法の合図として。

やがて、そろそろ?そろそろ?とみんなが噂し始める。
ラジオでもテレビでもスマホの画面でも。
別になくても、日々の営みに影響はないのに。 
地震や台風の方がよっぽどだ。
よその国の人でも、この国の美しいものとしてすぐ口にする。訪れる日があったら、どんなふうかこの目で見たい、と言った青い瞳の人がいた。

こんなに否定のできないものって他にあるだろうか。
海の向こうの人たちの。
千年よりも前の人たちの。
勿論いまここにいるわたしたちの。
心に囁いて待ちわびさせる。

そして、一つ目を見つけると歓声をあげるのだ。
柔らかな光に揺れる姿に。
ちぢこまった日々から解き放たれる証として。

そうなったらすぐだ。
次から次、待ったなしで広がっていく。
日の下では朗らかに、宵闇では自ら灯るように、薄紅の雲。
風にはらはら、かけらを落とす。とめどないざわめき。

口々に言う。
「見た?」「見に行った?」
その下で食べたり飲んだり騒いだり手を繋いだり。
あれほど気にしておきながら、「見に来た」と言いながら、本当にそうなのか。

雨が降ろうものなら一大事だ。
「散ってしまう、もう見れなくなる」
傘を傾け、地面にこぼれた残骸にため息をつく。
まばらになった薄紅を仰ぐ。

もし言葉があるのなら、「ごめんね」と言うだろうか。
これだけ人々の心をざわつかせ、惜しまれ、去ってゆくものがあるだろうか。
許されなくても許されるのだ。
葉だけになった枝を振る。また来年ね、と笑いながら。

忘れたと もう何度めか きみが言う
肌寒い夜 線路眺める

Qc4月Nbxd5日


大学に近いからと借りたアパートは木造で、内外ともにスマホのある時代にはそぐわなかった。靴を脱ぐときに座れる場所はなく、「料理をしているときに後ろから抱きしめられる」ができるほどキッチンの通路は広くない。少女たちのときめきを全て削ぎ落としたようなアパートに、私は住んでいる。

便宜上彼氏と呼んでいる男は、私より4つ年上の社会人だ。まるで町に見放されたかのような場所にあり、街灯さえもここを照らすのを避けている。これで6万円というのは、割高ではあるが仕方がない。電車に乗ってまでわざわざここまで来るのは、どんな気持ちなのだろうか。想像の余白があるから成り立つ関係だ。

「忘れちゃったけど、いいかな」と最初は許可を取っていた彼も、最近はそれすらも言ってくれなくなった。一度許すと図に乗るからね、とサークルのOGの発言が予言だったことには後で気付いた。言われたら言われたで忘れたのではなく買わなかったのだろうと内心で毒づいていただろうが、受け入れること自体はきっと変わらない。そう思うと気持ちが暗くなる。

少女の頃に何度も見た作品の主題は、「明るい未来を共に描くことが愛」。戦う少女の日常や葛藤から、そう教えてくれたアニメには説得力を感じた。そしてそのテーマを今も私は信じている。正しいと思う。
だからこれはきっと愛じゃない。あるはずがない。そんなことはわかっている。どうせなら生理と出産からはエクスタシーを味わえたほうが人間は幸せになるのではないかとたまに感じる。代わりにセックスからは快楽が奪われ激痛が伴えばいいのに。それならこんな関係は継続していい。

彼は寝るにしてもシャワーを浴びるにしても広い場所が好きなのだ。じゃあホテルに連れて行ってくれたらいいのに。そんなことをかわいく言える女だったらよいのだが、私が言うと刺々しくなってしまう。顔と身長のせいだろうか。もうそう考えることすらも煩わしい。彼といると自分の嫌なところばかりが目についてしまう。終わったら彼は身支度を始める。引き止められないのは台所の通路が狭いせいだと私は考える。

木造の2階建てアパートからも、そう遠くない場所に線路が見える。ひとりになったあとは、バルコニーから電車を眺めることにしている。コンドーム一つで私の未来は直線的に伸びるのだが、彼はそれに支払う数百円をなぜ惜しむのだろうか。教授は「正しい哲学とは正しい問いを持つことだ」と言っていた。だからこれは哲学ではない。

左側に身体を捻ると、銀行の看板が青白く光っているのが見える。立てられるくらいの札を降ろせるなら、今すぐロシアにでもフランスにでも発つのに、と妄想をする回数はATMに立ち寄る回数を遥かに超えている。自分のお金を自分の財布にいれるだけで手数料を要求する浅ましさが気に入らないのだ。

帰る場所に向けて揺られる人の事を思いながら、私は止まったまま、灯りを目で追っている。人を押し押されながら、手すりにつかまりながら帰りたい場所は私にはない。彼には、きっとあるのだ。

春の雪
あなたが胸から離れたら
自分じゃなくなるような冷え込み

N2b3月c6日


おひとりでいらっしゃったんですか?
はい、ちょっと来てみたくなって。
そうですかあ、ちょうど良い時期ですよ、これから暑くなりますからねえ。梅雨のあたりはヒルが出ますから、大変です。
うわあ、それ、どうするんですか。
肌を出さないことです、あとスプレーとか。

新緑の色って本当は花よりも鮮やかじゃないだろうか。山道の途中で足を休めながらふと思った。
緑、と一言で言ってしまうには惜しい。ようやく目覚めたような薄い緑、枝から少し赤が滲むような澄んだ緑。やわい葉は揺れ、水を吸い込んだ木々の香りで頭の中が透き通る。ずっと横になったら、朽ちて土になれる気がする。
鳥の囀りが聞こえる。家の周りとはまるで違う構成。彼女がいたら、何の声か教えてくれたかもしれない。

今日は天気も良くて、道もぬかるんでなくていいわ。
ああ、そうですね、思ったより歩きやすいです。

山道を行く人は、人懐こくなるのだろうか。
僕の母親くらいの歳の女性の二人連れは、気さくに話しかけてくる。紐のついた帽子に使い込んだリュック。登山靴にも年季が入ってる。
それに比べてスニーカー履きの僕は、いかにも初心者だった。
ペットボトルから水を飲む。肌寒いのでは、と思って着てきたウィンドブレーカーはとうに脱いでいる。これほど汗をかくとは思わなかった。

雨ふらしの神様がいるの。
あめふり、あふり、あぶり、で阿夫利神社。
山の頂上にお社があるんだよ。
あったかくなったら一緒に行きましょう。
早起きして、お弁当持って。

彼女は小柄な人だった。立って抱き締めると頭が僕の喉までしかなかった。薄い背中から温度が胸に伝わる。
あんな小さな身体のどこにエネルギーがあったのか。それを燃やすだけ燃やして、闘うだけ闘って、彼女はいなくなった。こんな簡単に病が人の命を奪うなんて、哀しみより驚きの方が、最初大きかったように思う。
病気の窓の外に降る雪が、雨に変わるのをぼんやりと眺めていた。

ほら、頑張った甲斐ありましたね。今日は雲がないわ。
あれ、江ノ島よ。相模湾が全部見えるわね。
三浦半島の先、多分伊豆大島よ。
こんなに見えるんですね。知りませんでした。

本当にいい景色だった。
青い空と青い海の間を緑の半島が区切る。半島の前の島はちぎり絵の折り紙みたいだ。手前には平原に筆の先で白い絵の具を細々と打ち続けたような市街地が広がる。

言ったでしょう、すごい眺めだって。

隣で並んで見るはずだった彼女の声が聞こえた。
ここに連れて来てくれた人。
あの空と海の間に、彼女はいるんだ。
僕はようやく涙を流した。

置き去りの良心 野放し 気晴らしに
吐き捨てたガム そこに野晒し

O-O月Re8日


「だから嫌だったんですよ。ぼくに恥をかかせるためだけに、ここにいるのかと思っていました」

きっかけは義父になる人の一言だった。「やっぱり結婚ってさ、家族になることでしょう。仲が悪いって言ったってお父さんとお母さんなんだから、一回くらい顔合わせするのが筋ってもんだよ」としみじみ語りながら、続けて自分が子供の頃の親との関わり方にシフトしていった。8人兄弟でいつも食事を取り合っていたこと、テレビのない時代に生まれたことなどを楽しそうに語る顔は日本酒で赤らんでいた。ごめんなさいね、と義母になる人が笑った。この話は初めてじゃないのにいつもきいてくれてありがとうね、と添えてくれるところが、この人達の関係性と人間性を如実に表している。

ぼくもこういう家庭に生まれたかった、という話を、お邪魔する日の帰り道で何度か彼女に話した。そのたびに彼女は一瞬しょげた顔をして、その後すぐにニコっと笑った。「『お父さんお母さん』なら、もうすぐ手に入るのよ」。

経営者の男はやはり「外から見れば」カッコいい。自宅で子供を怒鳴りつけたり殴りつけたりしないように見える。専業主婦になるつもりで結婚し、パートで働かざるを得なくなった女は背を曲げ広角を下げ、チョコチョコ動き回るように何度も礼をした。昆虫が逃げ惑う姿を彷彿とさせるそれは、心底気持ち悪かった。この場に呼ぶ電話はたったの5分だったのに、なぜか難航した。そういう人たちと暮らすのに疲れたので家を出た。会うことすら17年ぶりなのに、どの面を下げて「父です」「母です」と自己紹介できるのだろうか。もうここから、戦いは始まっていると思った。

食事程度なら難なく進むだろうと思っていたが、この人達にはそれもできなかった。配膳されてきた食事の盆を、男は受け取ってから苦々しそうに見た。「そういえばこの人は生魚苦手だったな」と思い出す。
彼女の父は「どうぞどうぞ、食べてください」と促すと、「実は苦手で…」と笑った。ぼくがメニュー表を彼に渡そうとしたが、女の声がそれを制止した。「食べなさいよ、こういう場なんだから」

祝いの席で「自分は好きなものを夫には食べさせない女」だと自己紹介している女は、そうやって人を不快にすることが得意中の得意だった。それに自分で気付かないでいられる図太さと、ずれた常識が、それぞれ五寸釘のように彼女を現世に打ち付けているように思えた。

黙っていることでその90分を乗り切ったあと、彼らは大層な封筒を僕の手の中に押し込めて帰っていった。手の中に一万円を握りしめているのに、こんなに苦々しい気持ちになったことはなかった。今日の会計は3万円超、彼女のお父さんの財布から支払われているのに。

一限に必ず寝坊してた君
満員電車に揺れる生活

Rfd1月Bg4日


毎朝毎朝感心する。自分もだけど。
月曜から金曜まで、決まった時間の決まった電車。
狭い空間に全然知らない人がすぐ隣にいて、個人の領域なんてあったものではない。誰とも目を合わせないよう、スマホやら本やらを手に、または目をつぶって休憩を貪ってひたすらに運ばれていく。
この状況に不平を口にする人はその場にいない。
これだけ人がたくさんいるのに、声が聞こえないのも不思議だ。義務感のにじむ社内アナウンスが流れるのみ。絶対に壊せない掟にみんな耐えている。
よく平気で毎日続けるものだ。
しょうがないよね、という連帯感。

その人がいる、と思うようになったのは半袖が長袖になる頃だった。

7:05の電車に乗ろうとホームに行くと、いつも彼がいた。太めの骨格、黒縁の眼鏡の奥の瞳は小さい。ナイロンのショルダーバッグが斜め掛けにされたお腹は歳相応に貫禄がある。白髪の混じった髪は癖で軽く渦巻いていた。おっさん、の一言で済ませるのは年長者に失礼だが、そう呼ばれても彼は怒らず、軽く笑って受け流しそうだ。
彼が他のおっさんと違うのは、そのハンチング帽だった。半袖の時期には麻製の涼しげな生地の、寒くなるとウールの細かな千鳥格子の柄物を被った。
昔の紳士は必ず帽子を被って外出した。そんな古風なお洒落が彼には残っている。
囲碁雑誌を手に、静かに電車を待つ。
囲碁雑誌、というのがいい。スポーツ新聞でも、一般紙でもない。きっとこの人は、少し知的なところがある。
そして一駅乗るとすぐ降りてしまう。その駅は別の路線も乗り入れているから、別方面へ行くのだろう。

そんな彼との遭遇は、満員電車にひたすら耐える毎朝の、ささやかな楽しみになっていた。

急な配置換えで出勤時間が変わってしまった。3ヶ月の限定で、30分遅く家を出ることになった。
仕事の為に朝の時間は削りたくないから、30分遅い電車に乗る。新しい時間帯の顔触れに、とりたてて面白い人はいなかった。あのハンチングおじさんが30分遅れてホームにいることもなかった。
小さな楽しみが消えた私は、なかなか座れない満員電車に苛立ちを募らせていった。

3ヶ月経った。久々に7:05の電車に乗るべく、ホームの階段を登る。ハンチングおじさんとの再会を期待して。
だが、彼はいなかった。
翌日も、その次の日も、彼の姿はホームになかった。
休みなのだろうか?それとも彼も配置換え?まさか入院したとか?
平日のあの時間、ホームにいるという以外、彼についての情報はない。同じ町に住んでいるはずだが、他の場所で彼を見かけたこともない。
私は少し怠惰になり、もう一本遅い電車に乗るようになった。こちらでもどうにか始業には間に合う。

満員電車とは不思議なものだ。これだけ毎日続けて、誰とも知り合うことはない。同じ時間、同じ車両、きっと同じ退屈にみんな耐えて過ごしているのに、仲良くなることはない。毎日顔を合わせているが、職場の同僚のようには決してならない。あの人はいつも出口際に立つ、あの制服の3人組は必ずこの駅で降りる。行動パターンだって、頭にそれなりに入っている。

ハンチングおじさんとの再会は意外にもすぐだった。職場での気分を変えようと、ひと月ぶりに7:05の電車に合わせて家を出た。
すると、いた。
相変わらず、ハンチング帽を被ってナイロンのショルダーバッグを斜め掛け。
つい声をかけたくなった。
どうしていらしたんですか?お仕事、お休みだったんですか?
向こうは私の顔を覚えているだろうか。
しかし、朝のこの余剰は迷惑以外の何物でもない。誰しも仕事に急ぐのだ。
どうして帰り道に彼と遭遇することはないのだろう。コーヒーひとつくらいは付き合ってくれるだろうか。

そしてまた、私は7:05の電車のために家を出る。
彼が毎朝どこに向かっているのか、後を尾けて突き止めため、休みがとれないか、なんて冗談にもならないことを考えながら。

真夜中に 急な来客 水を乞う
どこかで猫鳴く 春気ぜわしく

第三週

Rd2月Qc8日


「毎朝毎朝感心する。自分もだけど」
この言葉を受け取って展開した時、何を想起しただろうか。それを想起した自分は幸福だと思えただろうか。

ナツの頭には筋トレとラジオ体操が思い浮かんだ。幸福かは分からないけど、不幸だとは思わない。それが私の世代の幸福なのだろうということは分かった上でそう思えた。

本気でそれをすると結構疲れる。それが気持ち良い。好きな社会学者が執筆に行き詰まったり身体がなまったりしてるときにラジオ体操されていると聞いてから、真似てそうしている。真似は学びだ。学びは机の上でするものだとは限らない。

私は働いていない。だから何だというのだ。私はそれを不幸だと思っていない。

ラジオ体操をしたあとは、彼にメッセージを返す。もしインターネットのない時代に生まれていたなら便箋を使っていたのだろうか。あるいは大学に行かずに嫁に行っていただろうか。彼におはようございますなんて、淑やかに言っていたのだろうか。私が。想像しただけで笑える。多分そんなにおとなしくは起こせない。

私は言葉が好きだ。言葉の背景にあるものが好きだ。言葉の背景にある生活を楽しんでいる人が好きだ。生活を楽しめる人が好きだ。生活を楽しめる賢い人が好きだ。面白いな、頭のいい人とするお話しは楽しいのだ。そう思わせてくれる彼が好きだ。年齢の離れた彼が好き。彼の重ねてきた齢には、時間の脚立を使っても届かない感じがする。彼とのやり取りと、本を読むこと、当時の文化を調べることだけがその距離を近づけてくれる。最後のは少し乗り気ではないときもあるけど。

「ねぇ」
「甘えるというのは」
「質問することなのかも知れないと」
「ふと思った」

甘えるのが上手くない男からのメッセージが届く。彼の生活を知っているからこそ味わえる旨みがある。それを知っている私は幸福なのかも知れない。

午後22時。「それもひとつなのかも」とだけ返す。
“特にあなたにとっては”と言わなくても彼はわかっている。きっと分かる。そう思わせてくれる彼が好きだ。いつもおやすみなさいは言ってないけど、それだって分かってくれているのだから。

婚活で出会った誠実そうな男性ひと
介護のような夜に さよなら

Nc5月Bh3日


「それもひとつなのかも」

夜中に一言だけ返事が来た。
メッセージの向こうの彼女を想像してみる。
もう寝る前、部屋着で布団にくるまり、スマホを人差し指でたたく。指先はまだ若く、皺とは無縁で艶がある。

彼女と同じ歳の頃、私は何を考えていただろう。
少なくともこれほど頻繁に、誰かと連絡することはなかった。小さな板の流す情報に始終気にかけることは。
気になったら電話をかける。繋がらなかったらそれまで。懐が寂しかったらその分電車に乗らずてくてく歩いた。
何というか、この身ひとつで、の時代だった。
心の方はどうだったろうか。

彼女の様子を見てると面白い。
その速い回転の頭であれこれ思いつく。
「婚活で知り合った人が同じ苗字だったら、意識しちゃうのかな。逆にマッチングさせないのかな」
「仕事をしてる人たちって、お金が欲しいだけじゃないよね。それをしないと世界が終わる気がするんじゃない?」

自分はその頃、答えは思索すれば見つかると思っていた。思索そのものも楽しかった。
意思とは何だ、時間とは何だ。
自分という存在は時の流れのうねりから見れば、何者でもない。砂漠のひとつの砂つぶよりも意味がない。
けれども世界は圧倒的な強さで私に迫った。人の心は覗けない。自分の心だけを知覚する。それを一人ひとりが持っている。
なぜ私は私で、私はあの人ではないのか。

そんな疑問とは別の次元の問いを、若い頭は次々紡ぎ出す。答えが欲しいのとは違うらしい。子猫が別の子猫にじゃれつくように、小鳥が囀って自分の居場所を知らせるように、いま、生きていることを実感する証なのかもしれない。ささやかな甘えのひとつとして。

小さな板の向こうにいる、微笑ましい利発さに感心しながら、私は眠りにつく。

葉桜に街灯瞬く隅田川
いずれ尽きるか 足取りさえも

Bf3月Bg4日


ナツはそう言って神妙な顔をして、そのあと礼儀のように笑った。彼女の手のひらの上には、それにちょうど包まれる大きさの立方体が乗っていた。変わったリングケースかと思われたそれは、蓋を開いて始めてスイッチだとわかった。

ナツ曰く、そのスイッチを押すと「普通」を消せるそうだ。「どくさいスイッチ」を彷彿とさせるバカバカしさに思わず笑ってしまったが、ナツの目は真っすぐぼくを見据えることで、信じていないぼくを咎めた。話だけは聞くことにしなければ、と思わされた。

忙殺されて音楽ができないと電話で愚痴を言った翌日、僕の終業時間に合わせてナツは「万世橋にいます」とメッセージをくれた。自分で自分の時間をつくることの難しいぼくにとって、半強制的に時間を作らされるナツのマイペースさには感謝している。彼女はぼくにとって、給水所、ないしは換えの酸素ボンベのような役割を担っているからだ。

待ち合わせ場所から見えるファミリーレストランまでは、回り道をしてあるかなければならない。話好きなナツが無言で歩くのは珍しかった。左手に何かを持っているな、と彼女の後ろ姿を見て思ってはいたが、まさかそれが「普通を消すスイッチ」だとは想像だにしていなかった。

ナツは無言でその箱を差し出した。ぼくに、押せというのか。仮にボタンが本物だったとして、少なくともナツはこの世界に残るだろうから、その点は心配いらない。問題は僕だ。どうなるのだろうか、と考えるまでもない。その事実が怖かった。

ぼくは普通に憧れたことなどない。才能が欲しかった。共感性を尖らせたかった。言いたいことを言いたかった。ロックスターに憧れた。偏差値の中央値の県立高校に通った男子高校生は、普通科に通い、まるで問題を起こさないことがアイデンティだった。呼吸をするように演奏がしたかった。口を開けば音楽の話かよ、と笑われたかった。実際は、スポーツの話をする同級生を嘲笑う側の立場だった。そして忙殺されて趣味・・の音楽ができないとボヤいている。普通に憧れない割に普通にしか過ごせない。それをずっとコンプレックスに思っていた。

ナツはぼくにスイッチを受け取るように、と腕を伸ばした。仕方がないので受け取る。ナツは立ち上がり、トイレ、とだけ言って去った。

そして帰って来なかった。そのままでいてもラチが開かないので蓋を開けた時、耳に衝撃が走った。その店にいる全員の耳にだ。子供用のブザーがけたたましく鳴り響いたのだ。止める方法も分からずあたふたしていしまい、反射的に周りに頭を下げることしかできなかった。

どうやってその音を止めたか、もう覚えていない。居たたまれなくなってすぐに会計を済ませ、いつも以上におぼつかない足取りで駅に向かった。ポケットから通知音が聞こえた。

私なら チーズケークを手づかみで
頬張った後 岩波を読む

Bg2月Bh3日


雨の上がった空を見る。
鳥が鳴いている。
東京の都心とも郊外とも言えないこの場所。
どの駅からも歩いて15分はかかる。商店街とも言えない商店街は自然消滅し、住宅街に飲み込まれた。
かろうじて23区内であることが、この土地の価値を保っている。

いつか私があなたの歳になったら、あなたのことがわかるかもしれない。

そんな言葉を残して娘はいなくなった。
私のかつての伴侶と一緒に。

なぜ一緒に生きていこうと思えるのだろう。
なぜ一緒に生きていけると思えたのだろう。
まるで宇宙人だ。
一緒に住んでいるはずなのに。
同じものを見ているはずなのに。

上半身を起こす。
ぶら下がっている左半身。言うことをききそうできかない。呼吸が浅い。
なさけない、なさけない。
私の人生は輝かしいもののはずだった、私は誰よりも才能に溢れてた。
口から言葉がだらだらと流れ出る。誰かが聞いているとは思わない。発することが、形にすることが、どうにか私を私にするのだ。

立ち上がってベランダの向こうを見る。
4階建ての集合住宅。かつてはあそこに木立があった。どんぐりの実を秋に散らばせた。
今はただ、人の気配とコンクリートの熱気を跳ね返すのみ。今年の夏も、冷房なしでは過ごせないだろう。

猫が足に擦り寄る。銀色の虎柄。私と彼女にしか側に寄らせない。小さな生き物の気高さは、私自身に残された最後の尊厳のようにも思えた。
「そうだ、ごはんまだだったなあ」
高貴の生き物は柔らかに声をあげる。
私は積み上げられた本の合間から、台所へと足を向ける。買い置きはまだあった。缶切りの細やかな金属音と、脂と魚の匂い。もうそれだけでこの同居者は動かなくなる。この後何があるか、しっかりわかっている。

同居者の傍らで私も食事を済ます。彼女が置いていったあんパンと一杯の牛乳。午前の光は穏やかだ。
今日はどうしようか。図書館に行くか。それとも彼女が来てくれたら、足を伸ばして丘の上の寺まで行くか。リハビリになる。
思い付きに自嘲する。どれほど良くなっても、もう、もとには戻らない。私の人生はお情けのおまけのようなもの。

本の山を見やる。これが私を私にしてくれたもの。
持っているものは私の全てだ。美しい言葉も、美しい風景も。私が理解したものは、私もいつか紡ぐはずだったもの。でも色んなことが邪魔をした。こんなはずではなかった。

「どう?調子はいいかしら?」
そろそろ彼女がドアを開けてくれる。

胸がひどく重い。朝から甘いものがいけなかったか。水を汲みたく水道を捻る。コップから冷たい感触が喉を通るが、重さは変わらない。呼吸も浅い。
下腹部に違和感を覚えてトイレに立つ。

彼女はまだだろうか。もし頼めば、病院に連れて行ってくれるだろうか。

便器の前で用を足そうとした瞬間、全身の力が入らなくなった。感覚が左胸に集中する。ひどい動悸。
息を吸おうとするが、何かがつかえる。
嫌な一文字が私の脳裏に浮かんだ。
いや、これでこそ、誰かが私の為に駆けつけてくれるかもしれない。
足から崩れ落ちる。光が点滅する。
あの時と同じだ。あの後だけ、娘は私のもとにやって来た。お父さん、と呼んだ。
彼女はそろそろドアを開けてくれるかな。
間に合えば、会えるのに。
そして、色んなものが遠くなっていった。


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